結果を出した後に出せなくなるのは?
前日のエントリーでは、営業マンとしての結果は「瞬間的な結果(成果)を上げたいのか」と「コンスタントに結果(成果)を残していくのか」の二つあって、後者は能力を身に付ける必要があり、そこには「時間がかかる」ということを書いてみました。
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たまたま「売れた」「売った」ではなく、「売り続ける」「売れ続ける」ことが、営業マンにとっては重要です。
これは、営業マンに限らず商売でも同じことが言えるのではないでしょうか。
私自身、商売をしているわけではありませんが、仕事上美容室と関わり、美容室運営というか経営というか、商売の楽しさ、難しさを傍からではありますが常に感じております。
順調なお店など一軒もなく、殆どのお店が何らかの悩みや葛藤を抱えながら商売をしています。とくに今はコロナ禍ですから。
以前は繁盛したいたお店が下火になり、逆に以前は厳しい状況が今では上向きになり、というようにお店によって様々であり、同じように接客・技術をしているにも関わらず、伸びるところもあれば、停滞するところもあり、ホント店舗運営は不思議というかなんというか・・・
まあ、営業マンでも同じようなもので、結果を出していた人間が急に出せなくなり、出せなかった人間が出せるようになることもある。
やはり、そこにはちゃんとした理由も存在するのも事実だったりします。営業マンでも美容室でも。
結果を出した後に出せなくなるケースは、誰しも経験することでしょう。そんなとき、私は本田宗一郎さんの「会社のために働くな」の以下の件をいつも思い出します。
私の最も苦しい時代
二十五歳の時だったか、私は自動車のホイル(タイヤをとりつける車輪の中心部)の特許をとった。非常の好評で、インドあたりへも輸出し、大へんなお金もうけになった。
従って私は資力的にはすでに恵まれていたのだが、ピストン・リングの製造を開始するや、瞬時にしてその大部分をすってしまった。失敗につぐ失敗、それは結局私に基礎がないために他ならない。この時程、私は自分がその学校時代、学問を放擲して遊びにふけっていたことを悔いた事はない。
学問は学問、商売は商売だ、と別物に見なして説く人もあろう。しかし学問が根底にない商売は投機に過ぎず、真の商売することの味はわからない、と言えるのではないだろうか。私ごときが厚顔な言い分だ。だが、骨身にしみた自らの基礎の薄弱さを悔いる経験が、強く私にそう悟らせたのだ。
三十歳の手習いだった。浜松高工の安達校長先生に依頼し、三年間の聴講生を許可してもらった。顧みれば、この時代が最も苦しい時代であったろうか。
以上引用。
『学問が根底にない商売は投機に過ぎず、真の商売することの味はわからない』
努力に努力を重ねるとはいいますが、根底にある基礎の部分がしっかりしているかどうか。
営業でも、セールストークの凄さだとか、商品アイテムの多さ、といったものは表面的なものであり、やはり、営業は人対人ですから、「人の心をいかに掴むか(心理学のようなもの)」であって、そうなるためにはどうするかを追求することこそが営業の基礎の部分なのだろうと思います。
形をいくら繕っても中身が伴わなければ意味はなく、中身とは基礎であり、学問なのでしょう。
とはいえ、現実問題として努力をしたからといって等しく結果が出るわけでもありません。
「会社のために働くな」でも、最も苦しい時代を経て数年伸び縮みの果てにやっと前途に明るい曙光を見た、と書いてあります。
数年で済んだからいいものの、ずっと日の目を見ないこともあり得るでしょう。
ただ、やらなくてダメだったではなく、やってみてダメだったの方が、私にはダメはダメでも納得もいき悔いも残らない、と思う次第です。
落合陽一「働き方5.0~これからの世界をつくる仲間たちへ~」
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