令和3年 治にいて乱を忘れず
本日は大晦日。大晦日のブログタイトルは、2018年から「治にいて乱を忘れず」であり、自戒を込めたものです。100年に一度といわれるウイルスに襲われた昨年。今年も結果的には、コロナに終始した一年となったのではないでしょうか。とはいえ、この一年、よかったことはよかった、悪かったことは悪かった、としっかり反省して令和4年(2022年)を迎えたいものです。
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現実問題としてコロナ禍であることは言うまでもなく、オミクロン株の市中感染が確認されるなど、まだまだ収まりそうな感じでもありません。
今年は、年明け早々から東京、埼玉、千葉、神奈川の1都3県を対象に緊急事態宣言が出され、長崎市でも感染者が急増ということで長崎県独自の緊急事態宣言が出されました。
ついでに長崎市は積雪もあり、なんだか年始から暗いスタートだなぁと思っておりました。
その後も各地で緊急事態宣言、まん延防止措置、県独自の宣言が繰り返され、10月に全都道府県で全面解除となりました。
コロナ禍収束に期待されていた?ワクチン接種も取り敢えずは進んだものの、昨年の今頃には想像すらしていなかった3回目接種に突入しています。
コロナ禍の収束に関しては、「経口薬と指定感染症の見直し」「保健所通さずに開業医がコロナ診察できるか」がカギを握るような話を聞くこともあります。
コロナに関しては、来年以降も引き続き、といったところでしょう。
コロナを切っ掛けに強制的に環境の変化が起こり、それに有利な形質と不利な形質があって、いうもでもなく生き残るには環境に適応するために変化するしかありません。無論、企業でも個人でも。
コロナも確かに従来の環境に変化を突然起こしたものですが、それとは別に規定路線としては、やはりテクノロジーの進化と長寿化の進展による環境の変化にどのように対応していくのかという課題があります。
コロナよりもむしろこちらの環境の変化に適応することの方が遥かに重要であると私は思っております。
健康、スキル、人生の目的、雇用、人間関係等々、これら全ての在り方、関わり方、考え方をどのように持つべきかは誰も教えてくれません。
著書「ライフ・シフト」「ライフ・シフト2」にも書かれているように、人生100年時代とは、3ステージの人生からマルチステージの人生となるわけですから、これからの生き方、働き方のロールモデルは存在しないわけです。
となれば、重要となるのは自身のアンテナなのだろうと思います。
結局は、同じ物事(情報)を見たり聞いたりしても、人によって見え方、聞こえ方がまるで違うのです。見ているにも関わらず観えない。聞いているにも関わらず聴こえない。
コロナ禍だからというのではなく、環境の変化に適応するには、見るものがよく観えるように、聞くものがよく聴こえるようにするしかないのだろうと思います。
そして、そのためには「学び」が欠かせない。つまり、物事(情報)は、自分の教養のレベルに応じてしか見えないし、聞こえないし、入ってこない。
そうかといって、あまり先のことばかり考えても不安しかないので、今目の前にある課題を一つずつ丁寧に解決するしかないのかなと思っています。
そして、その課題とは「最悪の事態を想定」したもの。
未来が予測不可能であるという現実を受け入れ、不測の事態が引き起こすダメージをできるだけ緩和するために、あらかじめ余裕を持てるように、というか持ちたいものですね。
そんなことばかり考えて過ごした一年だったように思います。来年が良い年であるようにと祈りつつ新年を迎えようと思います。
「ライフ・シフト 100年時代の人生戦略」
「ライフ・シフト2 100年時代の行動戦略」
今年最後に、松下幸之助「素直な心になるために」より、「治にいて乱を忘れず」をどうぞ。
以下引用。
昔の中国の名言に「治にいて乱を忘れず」ということばがあります。
これはつまり、おだやかで平和な満ち足りた状態にあるからといって安心しきって油断してはいけない、いつまた情勢が変わって聞きに陥るかもしれないのだから、つねにそれに備えて心をひきしめておくことが肝要である、というようなことをいっているのだと思います。
たしかに、そういった油断のない態度、心がけというものを保っていくならば、個人としても団体としても国家としても、つねにあぶな気のない姿を保持していくこともできるのではないかと思います。
そして、こういう名言がどうして生まれたのかを考えてみますと、考え方はいろいろあるでしょうが、一つにはやはり過去をふり返って十分に反省をしたところから生まれてきたとも考えられると思います。
すなわち、個人でも団体でも、国家の場合でも、事がおこってゆきづまるとか、危機に直面してそれに打ち負かされてしまったとかいうような姿をくり返しているわけです。
そこで、なぜそういう姿がおこるのかを深く反省したところ、しばらく好調な姿が続いたのでそれになれてしまい、なすべき努力を怠り、必要な心くばりを忘れてしまっていた。
その結果、時代の流れ、情勢の変化に相応ずることができないほど、みずからの力が弱まっていた。
それでゆきずまってしまったのだ、というようなことがわかったわけでしょう。
そういう反省から、「治にいて乱を忘れず」という名言も生まれてきたのではないかと思いますが、そのように反省というものは、みずからのあやまちを防ぎ、よりよき明日を迎えるためにきわめて大切なことだと思うのです。
だからそういう反省は、事がおこってからするよりも、いわば日常一つひとつの事柄について反省を加えるということが必要ではないかと思います。
以上引用。
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