読書のコスパを気にしすぎでは?


読書の心構えみたいなもので「最初から最後まで全部読もうとしない」みたいなものを見かけるのですが、とはいえ、やはり折角買った以上は全部を読み切りたいとは思うもの。ところがその気持ちとは裏腹に積読だけが増えていくのでした。

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「読んでいない本について堂々と語る方法」

読書の秋である。

誰しも、本棚を眺めると、買ったはいいが一度も開いていない本が一冊は見つかるはずだ。今年こそ読み切ってしまおうと思い立つが、なかなか腰が上がらない。なんとかページを開くところまでたどりついても、残りの分厚さに目眩がして閉じてしまう。そうこうしているうちに時間が月単位、年単位で流れていき、その本はただのインテリアと化す。

多くの人が心の底に抱えているが、しかし口に出すのは憚られる本音がある。

本を読み切るのは誰にとっても「面倒」

つまり、「本を読み切るのは難しい」。もう少し大胆に言えば、「本を読み切るのは面倒」なのである。(後略)


以上引用。


上記も結局は、本を読まなければ紹介されている本のタイトルのように「読んでいない本について堂々と語る方法」を語れないという、何という皮肉かと。

ちょっと違和感を覚えてしまうのは、自分が読んだ本についてそもそも語る必要ってあるんでしょうかね?語ろうと思って読む人ってどれだけいるんでしょうか?

なんだか学校の宿題のように読書感想文をいつまでも引きずっているかのようで、何とも気味の悪さすら感じてしまいます。

というか、自分が読んだ本を”語って”こられようもんならウザイの一言なのですが、私の場合。

何というのでしょうか、折角読書したからには何かを得られなければ意味がないのでしょうか?

読書を活かす的なコスパを気にし過ぎてませんかね?

どうしても読書をしなければいけない理由なんてものはないし、読むのが苦手ならば、今では書評サイト、YouTubeでそれこそコスパよく紹介してくれています。

使わない理由はどこにもないでしょう。そんなものを利用するのではなく、読書はちゃんと文字を最初から最後まで読んでこそと思い込んでいるのが最も厄介というか、それこそが読書の邪魔をしているのかもしれませんね!?

まあ、本を書いた側からすると当然ながら買って読んでくれることが嬉しいに決まっているでしょうけれど。





「アーノルド・ベネットの賢者の習慣」




見城徹「読書という荒野」





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