好奇心をもって没頭する
英語のスタディ(study)は、ラテン語のストゥディウム(studium)に
由来している。その意味は「好奇心をもって没頭する」ということ。
これは勉強だけでなく、仕事や人生においても大切なこと。
「好奇心をもって没頭する」が、元々のスタディの意味だと知った
ときは、かなりの衝撃でした。
となると、勉強することを、他人から強要されることは、勉強では
なくなるし、それは「お勉強」でしかない。
勉強するには、必ず教師が必要だとか、場所が用意されていたり、
カリキュラムがあったりするものというのは、単なる思い込みであ
り、学校教育のなせるワザとも言えます。
勉強する意味を履き違えている人間が、ほとんどでしょう。
独学という言葉がありますよね。
様々な分野で、ある一定の成果を収めている人がいます。
もちろん、すべての人に当てはまるわけではありませんが、独学で
技術を身にけている人が多い印象を個人的には受けます。
独学で技術を身に付けた人は、「自分で何事も決めている」という
のがあると思います。
何のために何をするのか、どんな風にするのか、すべてを自分で決
め、自ら責任を負いながら突き進む。
このことを一言で言い表すと「好奇心をもって没頭する」となるの
でしょう。
従来の学校教育では、「教わる」ことから入ります。
もちろん、それを否定するつもりはありません。
先人の知恵を活かすことも、また知恵であり、遠回りせず近道で行
けるとも思います。
ですが、必ずしも「教わらなければいけない」ということはないと
いうことです。
ちょっと、意味がわかりずらいでしょうか?
独学や我流という言葉にどのような印象をお持ちですか?
私は、正直いい印象をもっていませんでした。
それは、今の会社に入り、とにかく「独学と我流」はよくないもの
と教え込まれ、そういものだと思い込んでいたからです。
それ以上の事を考えようともしなかったからです。
多分、会社の社長や上司がそのように言っているのだから、そうな
だろう、という感じで思考停止に陥っていました。
しかし、同時に、世の中の成功者の自伝やインタビュー記事などを
読むと、「独学や我流で極めていった」という言葉を聞くたびに疑
問を抱いてもいました。
要は、社会に出てから、自分自身が「好奇心をもって没頭する」こ
とがなかったと言えます。
そして、今の営業という仕事に、本気で向き合うようになってから、
随分と変わってきました。
営業成績を上げるには、正しいも間違いもありません。
営業を教わる必要もありません。
大事なことは、自らの力で一つでも商品を売ってくることから始ま
ります。
会社から言われて売っているうちは、「好奇心をもって没頭する」
は、ないでしょう。
さて、我々が、学校教育で教わる数学や物理といった学問ですが、
これも最初から存在したわけではありません。
では、その学問がどのようにした今の学問の体系となったのか?
それを、堀江貴文さん「すべての教育は「洗脳」である」で見事に
説明してくれています。
そして、堀江さん曰く「没頭こそが「学び」である」と。
以下に引用。
夢中になっているからこそ、人は一日中それについて思考を巡らし、
新機軸を思いつくことができる。
失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程を含めてすべて
を楽しむことができるのだ。
今学問と呼ばれている領域だって、言ってしまえば「誰かの没頭体
験」のアーカイブだ。
詳細な教科書や暗記するべき公式が、あらかじめ人類に用意されて
いたわけではない。
どんな学問を取り上げても、その歴史をさかのぼった時に現れるの
は、「それに没頭してしまった誰か」の姿である。
知の巨人としてあまりにも有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。万有
引力の法則を発見したニュートン。現代物理学の父アインシュタイ
ン。
彼らのような人々が、それぞれ自分の抱いた疑問の検証に寝食を忘
れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体
系は成熟した。
彼らは「お勉強」をしていたのではない。ただ目の前のことにのめ
りこんでいただけだ。
実際、歴史に名を残すような人たちは皆、並外れた没頭力を持って
いたことで有名である。
以上引用。
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