会話の中にある理解と同意という罠
前回、前々回のエントリーでは、人口減少時代に突入している日本において、今まで以上に人付き合いは、「理解」と「共感」を峻別することが重要であることについて述べました。それは、商売においては尚の事であり、共感する人とだけとなると、より多くの人を巻き込んではいけません。
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ここからは、商売の話を持ち込んでしまうと、私自身が少しばかり具合が悪いので、人付き合いというか、会話を中心に書いていこうと思います。
さて、「理解」と「共感」の峻別ですが、それに通じるのが、「理解」と「同意」であり、「理解」することと、「同意」することも違います。
共感とは、他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたりすること。
同意とは、相手の意見や提案に対して賛成すること。
「理解する」と「同意する」が混同される場合もありますが、両者は明らかに別の意味のある言葉です。
理解とは相手の立場を考慮することですが、同意とは先述の通り、相手の言い分を丸ごと支持することです。
例えば、誰かがある主張をするとき、その主張には同意はしなくても、その人がその主張をするに至った背景や理由を理解することは可能です。
もちろん主張を理解すると同時に同意することもできます。
普段の会話において、同意と理解はまるで同じであるかのように思われていることが多いのですが、そのため同意したら理解したことになり、同意できないことは理解しようともしない。
このような態度を続けていくと、同意できるのみを理解と捉え、そこに共感が加わると、益々狭い範囲でしか物事を見れなくなるように思います。
そのような態度よりも、同意と理解を区別するほうが遥かに望ましくより建設的ではないか。
会話においても、同意するかどうかは別としても、なるべく相手の立場を理解しようとする姿勢がもっと必要なのではないでしょうか。
理解と共感を同義と捉えず、更には理解と同意も同義と捉えず、会話において、常に相手を「理解すること」を意識し、それから共感、同意できるかどうかを考えるクセを身に付けていくことで、主観的な思い込みはかなり修正されるのではないかと思います。
たとえ人の意見に「同意」しなくても、その人がどのような条件や背景からその意見に至ったのかを考えてみれば、その人なりに妥当な理由があることが「理解」できるようになるのです。
そうすれば、意見が違うからといって、その人を憎んだり衝突したりといったことが避けられる。
そして、日常的な会話も少し違った形になっていくことになり、同意することのみに集中していたときには得られなかった、相手の意図することころを汲みとれるようになっていきます。
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