対話を通して自らの無知を知る


今年も今日をいれて残すところ後4日となりました。今年も美容室に営業に出向き、そして店内の勉強会を繰り返す日々をコロナ禍にあってもなんとか続けることが出来ました。営業マンとしてモノを売り続け、勉強会なら色々な事を教え伝えていきました。

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勉強会で行う内容は、理論・技術・営業ノウハウ・情報等。

全ては、うちの会社のモノ・サービスに関するものですが、時折時事ネタ的なものを取り上げていたりして、ホワイトボードを使って勉強会を進めています。


基本的には、私が一方的に説明することをノートにとってもらいながら進めていく形です。

ただ、一方的に進めていくと相手がどれだけ理解したのかがよくわかりません。

勉強会とはいうものの学校の授業のような感じであれば、誰も好き好んで聞くことはありません。

かといって、あまりにも雑なというか規律のない感じだと勉強会風な感じも出ません。


ですから、営業もそうなのですが、勉強会では「いかに聴かせるか」が問われます

とにかく、相手は「聞いているようで聴いていない」ことが殆どなのです。


聴かせるためには、「考えさせる」というものがあります。

つまり、質問を投げかけて理解できているかどうかを考えさせるわけです。


勉強会に参加していながら「聞いているようで聴いていない」わけですから、更に教わったことを相手に実践させようとするのは、どれだけ難しいか見当もつかないほどです。

ですから、こちらが実践をしていなければ聴かせることなど、ましては実践させることなど不可能なのです。


ところが、ホワイトボードの前に立つと人間は不思議なもので偉くなった気がしてしまう人もいます。

こちらが話す内容を笑顔で聞いてくれていると勘違いしてしまうのです。

勘違いしてしまって、実践もしていない浅い知識だけを話してしまいます。

大体の場合、この手の人間が勉強会を任されたりすると相手からクレームが出て強制終了です。


私も当ブログで勉強会・勉強会と書いていますが、それ相応の努力と実践を伴っていなければ、勉強会をする人間に値しません

努力と実践が伴う以上に、それを続ける姿勢が問われます


まあ、このブログもその一環のようなものです。


さて、勉強会中に相手に質問を投げかけたりすると思いがけないような答えが返ってくることもあります。また、相手から質問されることも度々あります。


実は、これが私としては時として大いに役立つことがあります。


何故なら、私の知識や思考の範囲内では答えられないことを自覚できる、つまり、無知である自分を自覚できるからです。


知らない、分からないのであれば、分かるようにすればいいだけであって、結果として、お互いが知識を埋め合わせることが出来て良い事づくめなのです。


教える側も学ぶ側も知識の穴埋めが出来るというわけです。

だから、時として勉強会中の「対話」は非常に大切な意味を持つことになります。

これは、営業で聴く訓練をしているからこそできることですし、そして、相手の言う内容を謙虚に受け止める器も磨かれることになります

そこを勘違いして、相手の言わんとするところを汲み取れず、一方的に上から抑え込んでしまうようなことをすれば、お互いにとって不幸のはじまりです。



ソクラテスは、古代ギリシャ・アテネの哲学者であり、産婆術という独特な対話方法によって、当時の知識人たちの無知を暴いたといいます。

産婆術とは、ソクラテスが用いた問答法のことであり、問答を通じて相手に知識のあいまいさや矛盾を指摘し、無知の自覚を呼び起こすことによって、正しい認識を生み出すように導く過程を産婆の仕事にたとえて名づけたものです。



自分の無知に気づくことは、非常に嫌なことですが、それを放置することは結局自分のためにもなりません。

私も勉強会を行えば行うほどに自分の無知さ、というか無力さを感じずにはいられませんでした。

今年に限ってはコロナということもありより一層そのように思えた一年だったように思います。





「言葉の力」





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